播戸竜二の誇り。「黄金世代が 日本サッカー界を引っ張っていく」

世界2位の快挙から20年……今だから語る「黄金世代」の実態第7回:播戸竜二

1999年ワールドユース(現U-20W杯)・ナイジェリア大会で準優勝となったU-20日本代表。A代表と兼任で同チームの指揮官を務めたフィリップ・トルシエ監督は、そのままシドニー五輪出場を目指す代表チームも指揮することとなった。そして、ワールドユースから1カ月後、そのチームが始動した。

しかし、そこに播戸竜二の名前はなかった。

ワールドユース後、所属のガンバ大阪でもスタメンで出場することがほとんどなく、同シーズンが終了後、播戸は大きな決断を下した。

「(ワールドユースのあと)2000年シドニー五輪から2002年日韓W杯へと続く流れのなかで、(ワールドユースで一緒に戦った)みんなに追いつくには『このままじゃあ、いかん』『スタメンで試合に出て、点を取らなあかん』と思って、1999年シーズンが終了後、ガンバから出て、(J2の)コンサドーレ札幌に行くことを決めた。

シドニー五輪を前にして『J2に行ったら(代表)メンバーに選ばれへんぞ』って(周囲からは)言われたけど、俺は五輪に出るためにサッカーをしているわけじゃないからね。将来、もう一度、(小野)伸二たちとサッカーをするためには、『自分はもっと成長せなあかん』と。そして、自分が成長するためには移籍するしかなかった」

札幌では岡田武史監督のもと、2000年シーズンは30試合出場15得点と結果を残し、チームのJ1昇格に貢献した。さらに、J1の舞台に戻ってプレーした2001年も27試合9得点と、まずまずの成績を残した。だが、日本代表の壁は厚く、2002年日韓W杯を戦う日本代表に選出されることはなかった。

「2002年W杯には、伸二、イナ(稲本潤一)、(小笠原)満男、(中田)浩二らが試合に出ていたけど、(その姿を見て)嫉妬とかはなかった。俺らの世代の代表として『がんばってくれ!』って応援していた。

でも次(2006年ドイツW杯)は、俺も伸二たちと『一緒にサッカーをやりたい』って思った。代表に入るためにはどうしたらいいのか、(その当時は)めっちゃ考えたね」

その結論として2002年、播戸はヴィッセル神戸への移籍を決めた。

「もっと成長したいと思ったからね。それに(当時の)神戸にはカズさん(三浦知良)がおった。カズさんからサッカーを学びたいと思って移籍して、2004年シーズンには17ゴールを取ることができた。

それで、自分なりにも(代表でやれる)自信があったし、『そろそろ代表にも呼ばれるかな』って思っていたんだけど、2005年にケガをして……。2006年には(古巣の)ガンバに戻ったけど、(シーズン序盤は)スタメン出場が少なくて、ドイツW杯には出られへんかった。同世代がたくさん代表メンバーにおったから、あの時は一緒にプレーができん悔しさがあったね」

播戸はその悔しさを胸に秘めて、所属チームで地道な努力を続けた。その結果、シーズン後半に6試合連続ゴールを決めるなどの活躍を見せ、2006年シーズンは最終的に30試合出場16得点という好結果を残した。

ドイツW杯後、日本代表の指揮官となったイビツァ・オシム監督にその活躍を認められて、ついに播戸は初のA代表入りを果たした。2006年10月4日のガーナ戦で初出場し、2007年アジアカップ予選(2006年10月11日)のインド戦で初スタメン初ゴールを決めた。

「オシムさんが監督になって、初めて代表に呼ばれた時はうれしかった。『やっと来たわ。これでまた、みんなと一緒にサッカーができる』と思った。

でもそうしたら、チームには(同世代が)ヤット(遠藤保仁)と加地(亮)、そしてタカ(高原直泰)しかおらんかった。(当時)俺らは27歳ぐらいだったから、まだまだイケる年齢やん。それなのに『なんで、伸二とかおらんねん』って思ったし、ちょっとショックやったね」

播戸は、不思議なほど同世代を強烈に意識し、同世代の仲間と一緒にサッカーをすることにこだわり、常にそれを大きな目標としてきた。

播戸にとって、同世代とはどういった存在なのだろうか。

「特別な存在やと思うし、見えない”絆”があるよね。プロになる前からお互いに切磋琢磨してきたんで、口で言わずとも(お互いに)考えていることがわかる。しかも、19歳、20歳の時にナイジェリアとかに行って、長い時間を一緒に過ごしたことは、一生消えへんからね。

俺にとっては、みんなのがんばりが自分の成長につながっている。昨年も、J3でモト(本山雅志)にピッチで会った時はめちゃくちゃうれしかったからね。(現役が)俺だけやったら『もうええかな』って、引退していたと思う。でも、まだ同世代の多くが現役でやっていて、『あいつら、まだがんばってんな』『じゃあ、俺もがんばらな』という思いにさせてくれる。(同世代というのは)そういう存在だから、自分もここまで(現役を)やめずにこられた」

2018年シーズン終了後、「黄金世代」でまたひとり、小笠原が引退を発表した。

播戸も同シーズン終了後、FC琉球を退団した。その後の所属先は決まらなかったが、あえて「引退」を公言することなく、現在はフリーという立場でいろいろな活動を始めている。

遠藤をはじめ、小野、稲本、本山、南雄太、永井雄一郎らが現役でプレーし、40歳になっても(もしくは40歳を目前にしても)第一線で活躍しているのはさすがだ。それこそ、「黄金世代」と呼ばれるゆえんでもある。

播戸は「黄金世代」と呼ばれることに誇りを感じているという。

「みんな、俺らの世代のことが好きやし、俺らが『黄金世代』って言われるのは当然やと思う。それは、(黄金世代のみんなが)それだけのものを背負ってきたから。『プラチナ世代』とかあったけど、代表でちょっとやっただけで、Jリーグの歴史の中で見れば、それほど輝いているわけじゃない。

今は若い選手でも普通に海外に行くけど、伸二たちが海外に行ってプレーしていた頃は、本当に選ばれた選手だけやったし、実際、あいつらは(海外に)出ていかなあかん選手だった。一方で、ヤットとかモトは日本に残って『Jリーグを背負っていかなあかん』という気持ちでやっていたと思う。

俺が中学2年生のとき、カズさんが(Jリーグアウォーズで)風船から出てきたけど、俺も、ああいうキラキラしたJリーグを『もう1回、作らなあかん』という気持ちをずっと持ってやってきた。『黄金世代』は誰もが、そういう気持ちを今も変わらずに持っていると思うし、それをプレーで見せてきたこと、今なお見せている選手がいることを、俺は誇りに思うよ」

小笠原は鹿島アントラーズでアカデミーの仕事を始めるなど、現役を引退した「黄金世代」のほとんどは、サッカー界の仕事に従事している。彼らはいずれ、Jリーグの監督やクラブの社長やGM、協会やJリーグの要職にも就いていくことになるだろう。

「俺らは、引退してもサッカー界に風を吹かせたいね。『黄金世代』って、選手としてもすごかったけど、やめてもすごいなって。ずっとそう言われ続けて、人生をまっとうしたい」

播戸にとって「黄金世代」は”心の拠りどころ”なのだろう。

ワールドユースで世界2位になった最強世代の仲間と一緒にプレーすることを願い、そのためにうまくなろうと一歩ずつ成長してきた。そうして培った自信が、播戸の代名詞とも言える、泥臭くも闘志あふれるプレーに表われ、多くのファンを沸かせる源となった。

これからも、その自信が人生の支えになる。

「みんな、がんばっているし、俺もやらなあかん。これからも、『黄金世代』で日本サッカー界を盛り上げていくことをやりたいなって思う」

播戸の野心は、20年前と同じようにたぎっている。

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