黄金世代・遠藤保仁が忘れられない 「いちばんキツかった」悔しい経験

世界2位の快挙から20年……今だから語る「黄金世代」の実態第10回:遠藤保仁(2)

準優勝を遂げた1999年FIFAワールドユース(現在のU-20W杯)・ナイジェリア大会から帰国し、遠藤保仁は京都パープルサンガ(現京都サンガF.C.)に戻った。

チームは調子が悪く、低空飛行を続けており、ワールドユース組の遠藤、辻本茂輝、手島和希はチーム浮上の起爆剤として期待された。

だが、遠藤が最初に感じたのは、自分たちを見る視線の変化だった。

「準優勝して帰国したけど、俺はそんなに騒がれてなかった(笑)。(小野)伸二とかモト(本山雅志)とか、活躍した選手が注目を集めていた。ただ、大会で結果を出したことで、周囲の俺を見る目がだいぶ変わった。Jリーグの他の選手は『こいつらすげぇな』っていう感じで見ていたし、サッカー関係者とかも『こいつら、こんなにやるんだ』っていうふうに見ていた。サッカー界にけっこうな衝撃を与えたんだなって、ある意味そういうので準優勝したことを実感できたね」

ワールドユース準優勝という偉業に対する関心は、やがてファンの期待感に変わった。2002年日韓W杯が近づく中、彼らなら何かをやってくれるのではないか。そんな思いをワールドユース組に対して抱き、選手に対する注目度も増した。準優勝は、選手の周辺環境を劇的に変えていったのである。

遠藤自身、ワールドユースで得たものは非常に大きかったという。

「ワールドユースで世界のトップとまではいかないけど、まあまあの選手が揃った中であれだけやれたのは自信になった。そのおかげで俺は京都に戻ってツジ(辻本)とテッシー(手島)と3人で試合に出られるようになったからね。当時は、ワールドユースから世界へという感じじゃなくて、ヒデ(中田英寿)さんがようやく海外に行った感じだったけど、今、俺たちがあのサッカーをやって準優勝したら、メンバーのほとんどが海外に行ったんじゃない? そのくらいの力を見せることができたと思う」

ワールドユースの後、遠藤が次の目標に掲げたのは2000年のシドニー五輪に出場することだった。シドニー五輪の代表チームはフィリップ・トルシエ監督が指揮することが決定しており、それがワールドユース組にとっては大きなアドバンテージになっていた。

だが、編成メンバーは同世代だけではない。2つの代の混成チームになるのだが、上の代には、中村俊輔、柳沢敦、明神智和、宮本恒靖らがおり、またトルシエ監督はオーバーエイジ(OA)枠で3人の選手を起用すると明言していた。五輪チームのメンバー枠は18名で、3人がOA枠で埋まると残りは15名。その椅子を同世代と上の世代の選手たちと争うことになったのだ。

「ワールドユースが終わってからは、五輪が自分の中でいちばん大きな目標になった。兄貴(彰弘)も出ていたし、今ほど五輪に価値を見出すことができていなかったけど、それでも出たかった。ただ、五輪代表は俺らの代だけじゃなく、上の代の選手も入ってくるんでね。相当ハードルが高くなると思っていた」

当時は、中田英寿が海外でプレーしているぐらいで、海外組を気にする必要はなかった。単純にJリーグで力を見せて、競い合う状況だった。

「ほんと、Jリーグでがんばるしかなかった。監督はワールドユースの時と同じやし、その大会を見て、トルシエ監督は俺の実力をわかっていたと思うんで、あとは上の代の選手との兼ね合いというか、実力差かなって感じだったからね。でも、中盤は激戦区やった。(中田)浩二はディフェンスラインに入って、ヒデさんは前めで、酒井(友之)は右ウイングバックに入ったけど、ボランチの軸はイナ(稲本潤一)とミョウ(明神智和)さんだったんで、これは五輪に選ばれない可能性もあるなって思っていた」

シドニー五輪代表には、最終的に楢崎正剛、三浦淳宏、森岡隆三がOA枠として選出され、遠藤はバックアップメンバーとしてチームに帯同することになった。バックアップメンバーとは、ワールドユースではGK曽ヶ端準がそうだったが、18名のメンバーにケガや病気などで出場が困難な選手が出た場合に、入れ替えることができる選手のことだ。ただ、五輪の正式登録メンバーではないのでIDがなく、メンバーと同じところで練習ができず、試合もスタンドからの観戦になる。選手であって、選手ではないのだ。

「シドニー五輪の悔しさは忘れられないね。帯同して、一緒に練習もできんし、試合もスタンドから。『なぜ行く必要があるの? 何のために居るの?』って感じやった。チームに戻って早く練習したいって思っていたし。シドニーの経験は、俺の中ではその後、ドイツW杯で出られなかったことよりも何よりもいちばんキツかった」

遠藤はシドニー五輪への出場はかなわず、2002年日韓W杯もメンバーから漏れた。

その後、ジーコが監督になってからは、度々代表に招集された。海外組が不在のときは試合に出られたが、彼らが戻ってくるとベンチになった。それでも遠藤はドイツW杯で初めてワールドカップメンバーに選ばれた。

「初めてだったのもあって、ワールドカップという感じがして、国歌を聞いたときはちょっと感動したね。試合には出られなかったけど、出られなくても当たり前の大会。他チームにも出ていない選手がたくさんいるわけで、そのくらいレベルが高く、デカい大会やと感じた。そこはワールドユースと全然違うし、準優勝したときは大会を楽しめたけど、ドイツのときはW杯で勝つ難しさや世界との差をあらためて感じさせられた」

ドイツW杯で、日本代表は1勝もできずにグループリーグ敗退に終わった。

ナイジェリアワールドユース組が8名も入り、中田英寿、中村俊輔らを擁したチームは「史上最強」と言われたが、その力を十分に発揮できずに終わった。

「同世代のチームとは違って、A代表はいろんな年齢でいろんなサッカー観を持っている選手がいるんで、まとまる難しさを感じた。海外でプレーする選手のメンタリティーと、国内の選手のメンタリティーも違うんで、そこを合わせるのが監督の仕事かなと思うけど、大会中もうまくいかなかったし、大会前の最後にやったマルタ戦でも良いゲームができなかった。それに、大会初戦のオーストラリア戦に負けたのが大きかった。俺らにはそこから立ち直る術がなかった。今、考えると単に実力がなかったのもあると思う」

ドイツW杯以降、遠藤はイビツァ・オシム監督の下で代表のレギュラーとなった。岡田武史監督になってからも主力としてプレーし、2010年南アフリカW杯では4試合に出場した。その後、2014年のブラジルW杯にもメンバーに選出された。遠藤がメンバーに入った3大会のうち、グループリーグを突破したのは南アフリカW杯だけだが、勝ち上がっていったチームの雰囲気はナイジェリアの時と同じような感じだったのだろうか。

「南アの時は初戦のカメルーン戦に勝って勢いに乗った。ワールドユースでは初戦のカメルーン戦で負けたけど、勝ち抜く自信はあったからね。状況や大会のレベルも違うんで一概には言えないけど、やれるのを感じていたのはワールドユース。W杯の俺らはチャレンジャーという立場やし、またあのグループリーグを戦ったとしても突破できる確率は50%も行かないでしょ。ロシアW杯もベスト16まで行けたけど、もう1回やったら難しいと思う。でもナイジェリアワールドユースやと、同じメンバーで10回やっても6、7回はグループリーグを突破できる。完敗が(決勝の)スペイン戦だけだったんで、そのくらい力があるチームだった。俺は、今もあのチームが歴代最強やと思っている」

最強世代――その言葉どおり、遠藤の世代の選手は日本サッカー界の中心になり、Jリーグで、海外で、そして日本代表で活躍してきた。遠藤は、海外移籍こそなかったが、2005年、ガンバ大阪のJリーグ初制覇に貢献するなど、国内組として圧倒的な存在感を示し、代表では152試合(歴代1位)に出場するなど鉄人ぶりを見せつけた。

遠藤には試合でプレーする際にポリシーがあるという。

「Jリーグも代表やW杯での試合もそうだけど、常に勝ちたい気持ちでプレーしている。これはどの試合も一緒。もちろん、勝った喜びは違うよ。Jリーグの試合よりもW杯で勝った試合のほうがうれしい。でも、試合をやる前は同じ。勝ちたい気持ちをいつも持ってプレーしている」

遠藤は、その思いでプレーしつづけ、ワールドユースから20年目を迎えた。

「普通に考えればすごいことだよね」

遠藤は、まるで他人ごとのようにそう語り、笑った。

(つづく)

遠藤保仁えんどう・やすひと/1980年1月24日生まれ、鹿児島県出身。ガンバ大阪所属のMF。日本代表国際Aマッチ152試合出場(歴代1位)。鹿児島実業高→横浜フリューゲルス→京都パープルサンガ

リンク元

 

Share Button