大黒将志の運命を変えた1ゴールと、背番号「31番」掛布との思い出。

将来を見据えて、点と点をつなぎ合わせることはできない。できるのは、あとで振り返り、それをつなぎ合わすこと。いずれ人生のどこかで点と点はつながり、実を結ぶと信じなければいけない――。

15年前、米国スタンフォード大学卒業式のスピーチでアップル創業者、故スティーブ・ジョブズ氏が残した名言である。

時を同じくして、人生を変えるゴールを決めた大黒将志のキャリアを言い当てているようである。2005年2月9日、ドイツワールドカップ・アジア最終予選の初陣となった北朝鮮戦でアディショナルタイムに決勝ゴールを叩き込み、ジーコジャパンの救世主となった。久保竜彦の代役として追加招集されたガンバ大阪のFWは、一夜にして“日本代表の大黒”として世間に認知された。

あのゴールから15年が経ち、大黒は言う。

「確かに、あれは運命の一撃やったと思う。波及効果はすごかったから。ただ、いま思い返せば、人生のターニングポイントとなったゴールは、ほかにもあるんです」

「いつチャンスがくるのか、分からんもんです」
2002年にチュニジア代表から奪った一発は、すぐに頭に思い浮かぶ。国際Aマッチでもなければ、公式戦でもない。日韓W杯前に万博記念競技場で行われた練習試合である。

当初の予定はベンチ外。当時22歳の大黒は期限付き移籍していたコンサドーレ札幌からガンバ大阪に戻ったばかりで、定位置も確保しておらず、日本代表ははるか遠い場所だった。この試合もスタンドから見守るつもりだったが、先発メンバーの1人にアクシデントが起き、急きょベンチ入りのチャンスが巡ってきた。

「そこで西野朗監督(現タイ代表監督)に15分くらいチャンスをもらって、点を決めたんです。ワールドカップに出場する代表チームからゴールを奪ったのは自信になりましたね。これはJリーグでもいけるわって。

それから、ナビスコカップ(現・ルヴァンカップ)、リーグ戦でも点を取りました。あのときはあとがなくて、ここで決めなアカンと思っていました。立場も状況も、あの北朝鮮戦と同じような感じでしたね。いつチャンスがくるのか、分からんもんです」

岡田武史にも認めさせた力。
プロ21年のキャリアを振り返ると、緊急事態でチャンスをつかみ、道を切り拓いたことは一度や二度ではなかった。

2013年、札幌時代に指導を受けた岡田武史監督(現・FC今治オーナー)の誘いを受け、中国の杭州緑城へ移籍したときの記憶は鮮明に残っている。

ある練習試合の日だ。いつものように朝から1人で体調を確認し、しっかり体をほぐしていた。スタメンから外されるのは分かっていたが、先発と同じ準備をするのはルーティンの一つ。そして、迎えたトレーニングマッチ。開始3分で味方のFWがケガで退場し、すぐさまピッチへ入った。

「そのときも、点を取ったんですよ。さすがの岡田さんも『やりよるな』という感じで、信頼してくれるようになりました」

シュート練習はチーム最高のパサーと。
2016年、モンテディオ山形時代にも不測の事態で存在感をあらためて証明している。7月3日、レノファ山口戦。開始15分で負傷した先発の林陵平に代わって投入されると、前半だけで2ゴールをマークし、勝利に導いた。二度あることは三度ある。

入念な準備はプロの点取り屋として生きていく上で欠かせなかったが、それだけでゴールを量産できたわけではない。計12クラブを渡り歩き、J1で69得点を記録し、J2では史上初の100ゴールに到達。どのクラブでも、味方の癖をいち早くつかみ、点につながるパスを引き出してきた。

15年前に決めた運命のゴールも、事前のキャンプで福西崇史のプレーをよく観察していたからこそ、咄嗟のラストパスを予測できたのだ。そして、年齢を重ねるたびにフィニッシュの技術を向上させたことも大きい。

居残り練習ではただひたすらシュートを打ち込むのではなく、「こいつしかおらん」と見込んだチーム屈指のパサーにボール出しを頼んだ。

「映像を見せながら、この場面では、ここにボールを止めて、このタイミングで出してほしいって。そうしたら、俺が一発で裏を取るからと。試合前のホテルの部屋、練習終わりのクラブハウスでも、何度も何度も言いました。パサーの質次第で点を多く取れるかどうか決まると言ってもいいので。ほんま、それくらい重要なんです」

31番は、憧れの掛布雅之の番号。
中国から帰国して1年目の2014年。京都時代のことはよく覚えている。工藤浩平(現・ジェフユナイテッド千葉)に毎日のようにシュート練習に付き合ってもらい、J2で初めて得点王を獲得。思い入れの深い31番を背負い、地元の関西で大暴れした。A代表に初めて追加招集されたときの背番号と同じである。

「31番は昔から好きな番号。あの代表でたまたま付けたときに『掛布やん』と率直な感想を口にしたら、そのままスポーツ新聞の見出しになったんですよ」

大阪育ちの大黒は、根っからの阪神ファン。「31番」といえば、ミスタータイガースなのだ。まだ幼い頃、父親に付き添ってもらい、掛布雅之さんの自宅前で朝7時から色紙を持って出待ちしたこともあるほど。当時の記憶をたどると、思わず苦笑が漏れた。

「目の前で『サインをください』と言ったものの、『ペンは? 』と言われたときに、はっと気がついたんです。忘れたわって。そのとき、僕はあの掛布さんに向かって、『家からペンを持ってきてください』と頼んだんです。僕も子どもやったから。

まあ、断られましたけど、すぐに引き下がらずに粘りました。さすがに親父に『今度にしろ』と言われて……いま考えれば、当たり前ですよね。早朝から自宅に押しかけて、ペンも持ってこずにサインをくださいって、それはアカンやろ」

後日、掛布さんが経営するお好み焼屋の近くで待ち伏せし、念願だった31番のサインを手に入れた。大きな道路をはさんだ歩道から「おっちゃん、サインして」と大声で呼び止めたのは、懐かしい思い出である。

掛布に直接お礼を言うこともできた。
無鉄砲な小さな虎キチはその後、サッカーで類まれな才能を発揮し、大きな成功をつかんだ。高級スポーツカーのフェラーリを3台乗り継ぎ、30代後半を迎えたある日、恩師の元日本代表FW釜本邦茂さんが主催するゴルフコンペに呼ばれて、掛布さんと再会した。幼少期にもらったサインのお礼を直接伝え、当時の非礼も詫びたという。

「あのときはペンを取りに入ってほしいと頼んで。すいませんでしたって。向こうは覚えていなくて、逆に謝られました。掛布さんはええ人でした」

大黒の半生を振り返れば、思わぬところで点と点が結びついていく。今年5月で40歳を迎えるが、コンディションはすこぶるいい。新型コロナウイルスの感染が拡大するなか、自主トレーニングを続けており、ゴールへの意欲も一向に衰えていない。不惑のストライカーが紡ぐ物語には、まだまだ続きがある。

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