【G大阪】過密日程を乗り越える鍵に!?食野らも鍛えた“育成のエキスパート”の指導力

福田に原点回帰を促した「お前の武器はなんだ?ドリブルだろ?」

19年3月10日。髙尾瑠、髙江麗央(現J2町田)、食野亮太郎(現ハーツ)、福田湧矢の4人は、G大阪U-23のメンバーとしてJ3開幕・八戸戦のピッチに立っていた。約2か月後の5月18日、彼らはトップチームの一員としてセレッソとの“大阪ダービー”のピッチに立っていた。

髙江は決勝点をアシストし、福田は積極的な仕掛けで攻撃を活性化させた。J1デビュー戦の髙尾も安定した守備を披露。7試合連続で白星がなくJ2降格圏に足を踏み入れていたG大阪を救ったのは、開幕をU-23チームで迎えた若手たち。1-0の勝利を収めた後、興奮冷めやらぬ口調で福田は話した。

「今日は仁志さんと裕司さんのために戦ったようなものだった」

「裕司さん」は宮原裕司U-23コーチ。そして「仁志さん」とは19年からU-23チームの指揮を執る森下仁志監督(47)のことだ。
同年1月下旬。沖縄キャンプに帯同できなかった若手6人の中に福田はいた。「大きなショックはあった」。福田は高卒1年目の18年、リーグ開幕戦でいきなりレヴィー・クルピ監督にスタメン抜擢された。だがポジションは経験したことがないボランチ。そしてチームは開幕から低空飛行を続け、徐々に自らも居場所を失った。2年目を迎えた時には自分を見失っていた。そんな悩む福田を見透かしたように、ある時、森下監督が言った。

「お前の武器はなんだ?ドリブルだろ?」

中学時代から好きだったプレー。プロへの扉を開いた自分の武器。「このままサッカー人生が終わるのかなとか、こんなもんじゃないだろうとか考えていた時期だった。目を開かせてもらった」。福田は原点回帰を促されたことで輝きを取り戻した。

そして同じく居残りキャンプ組だった食野。森下監督は、彼には“違った景色”を見せることで才能を引き出すことに成功した。

18年はJ1で11試合に出場。主に攻撃的MFだった。ただ森下監督は食野のゴール前での強気な姿勢を見逃さなかった。ある日の練習。唐突に「よしっ、今年はFWをやろう」と提案した。「最初は“んんっ?”て感じだった」(食野)が、熱量の高い指導に当時20歳の心は動かされた。5月にはJ1初得点を挙げ、夏にはイングランドの名門・マンチェスター・シティへ完全移籍(その後、ハーツへ期限付き移籍)した。10月には東京五輪世代のU-22代表にも初選出されるほどになった。

G大阪U―23組は伸び代を多分に残している者たちの集まり

「U―23チームはダメなヤツが来る場所じゃない」

森下監督は就任直後、若手を前にして檄を飛ばした。G大阪U-23組は脱落者たちではない。むしろ伸び代を多分に残している者たちの集まりだ、と。その言葉に偽りはなく、選手と真正面から向き合い、徹底的に鍛え上げた。

トップチームが1部練習でも、U-23チームは午前と午後に分けた2部練習を敢行。技術だけではなく、プロとしてのあり方も説いた。磐田(12~13年5月)や鳥栖(15年)などのトップチームを指揮した当時から厳しい練習で有名だったが、スタイルは不変。磐田や鳥栖では結果が出なかったが、G大阪の若手にはマッチングした。
「それまでは他人の責任にすることが多かったけど、本当にメンタルを成長させてもらった。謙虚でいることの大切さも教わった。これからも苦しい時はあると思うけど、乗り越える自信はある」(食野:19年8月、マンチェスター・シティ移籍会見時)

「仁志さんには感謝の気持ちを忘れるな、と言われ続けました。グラウンドに立ったら、まず“今日もサッカーができるのがありがたい”と思うようになった。気持ちの持ち方次第でプレーは変わりますね」(福田)

20年シーズン。新型コロナ禍で、リーグ再開後は過密日程が待ち受ける。タイトルを目標に掲げる宮本恒靖監督も「総力戦」と覚悟する。U-23チームには芝本蓮や松田陸、そして唐山翔自ら原石が控える。彼らを何人トップに送り出せるか。森下仁志という育成のエキスパートの存在が、今季タイトルレースを左右するかもしれない。

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