家長昭博と本田圭佑。代表キャップ3と98は何を物語っているのか

連載:「日本代表」という肩書に迫る(4)

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代表に定着できない理由は、いくらだってある。

戦術的に適合しない。単純にそのポジションに実績のある選手がいる。選ばれるタイミングで、折悪しくケガをする。あるいは、人間同士のやりとりだけに、代表監督ら首脳陣に「嫌われている」可能性もある。ユース年代で代表に選出されず、きっかけをつかめなかったのかもしれない。

代表定着は、多分に運も必要となる。しかし、彼が代表でわずか3キャップ、出場は1試合分の時間にも満たないというのはミステリーだ。

家長昭博(34歳、川崎フロンターレ)は、日本サッカー史上、最も期待された選手のひとりと言える。

「天才」

その称号は小野伸二以来、彼に使われるべきものとなった。  家長は、その才能を無駄にしていない。2005年のワールドユース(現行のU―20ワールドカップ)では中心選手として活躍し、10代にしてガンバ大阪でも出場機会を増やす。2007年には代表でもデビューを飾った。

「アキ(家長)は別格」

同年代の選手たちにとって、エース的存在だったのだ。

同い年でしかも同じ誕生日(86年6月13日)でもある本田圭佑は、ガンバ大阪ジュニアユースで家長と同じチームだった。トップ昇格も確実視されていた家長と違い、本田はユースにすら上がれていない。星稜高校に進み、頭角を現したのだ。

家長は本田と同じ攻撃的MFだった。左利きの卓抜した技術、並外れたプレービジョン、そして身体的な強さやしなやかさにも恵まれていた。弱点と言える弱点がなかった。

しかし、本田が日本代表で活躍(98キャップ)するなど時代を駆け抜ける一方、天才・家長は雌伏の時を過ごした。

2008年には大分トリニータに新天地を求めたが、右膝前十字靭帯損傷で半年以上、戦列を離れることになった。2009年に実戦復帰してコンディションを取り戻し、2010年はセレッソ大阪でようやくその技巧を開花させた。そして2011年2月からスペインのマジョルカでプレーし、悪くないスタートを切った。この間、代表戦にも2試合出場したが、いずれも終了間際の出場。代表はそれが最後だ。

家長昭博にとって中村憲剛は「永遠に勝てないライバルだった」

マジョルカでは2年目からはポジションを失い、戦力外のような扱いで、流浪することとなった。その後はKリーグ挑戦、ガンバ大阪復帰、2部マジョルカ再入団と次々に舞台を変えたが、何かが?み合わない。苦しみ続けた。

そのキャリアを振り返ると、実像は苦労人に近い。天才・エリートと見られることに、本人は違和感を抱えていた。

「エリートのように扱われてきたギャップは、めちゃくちゃありましたよ」

拙著『ロスタイムに奇跡を』(角川文庫)のインタビューで、家長はそう告白していた。

「自分はスーパーなプレーはできない。圭佑のようにブレ玉も蹴れへんし。サッカー人生を振り返って、うまくいってへんことのほうが多かったですよ。大分の2年目なんか、何をやってもうまくいかずにへこんでいました。そんな大分時代も、チームには能力が高い選手が多かったから切磋琢磨できたし、怪我をして挫折を経験したからこそ、自分は人として成長できたんかなとも思います。もどかしい時もありましたけど、”絶対に乗り越えられる”という自信だけはありましたね。最後は負けへんで、と」

天才型に見えた家長は、努力型だったということか。才能に溺れず、コツコツと道を切り開いてきた。海外から戻ってそのまま萎(しぼ)むケースは少なくないが、2015年には大宮アルディージャをJ2で優勝させる原動力になった。J1に返り咲いたことで、プレーの質の高さが再評価され、川崎フロンターレから声をかけられた。

そのサッカー人生が集約されたのが、川崎での2018年シーズンだったかもしれない。

家長は攻撃的サッカーを信奉するチームで、無双を見せた。1対1では相手を寄せつけない。好きなようにパスを回す渦となって、敵をひれ伏させる。ここぞという場面ではゴール前に現れ、確実に仕留めた。ボールを蹴るのが楽しそうで、サッカーを謳歌していた。ベストイレブン、そしてリーグMVPにふさわしいスペクタクルなプレーだった。

それは、「天才」と言われた男のひとつの結実に見えた。

「僕はできれば、試合でもミニゲームのようにパスをつなぎ、相手をちんちんにしてゴールしたいんです」

彼はかつてそう語っていた。川崎で見せるプレーは、理想の延長線にあった。

家長はJリーグMVPに輝いたが、代表復帰は果たしていない。次世代の突き上げがあったからだ。南野拓実、久保建英、堂安律のような若手アタッカーが次々に台頭した。しかし激流の時代の中でも、杭を突き刺し、踏みとどまり、サッカーの楽しさを人々に見せ続けている。

2020年シーズン、圧倒的な優勝を飾った川崎で、その劇場性によって話題をさらったのは三苫薫だが、最もコンスタントに攻撃的サッカーを作り上げたのは家長だった。ボールを収め、時間を作り、チームを動かし、決定的仕事もした。29試合出場11得点。同世代の選手で、これだけの成績を残している日本人選手はいない。長い年月をかけ、本田を逆転したと言っていい。

「どれだけつらいことがあっても、サッカーをやれる喜びは勝つので」

そう語る家長は硬骨の人だ。

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