「サッカー人生の全てを変えるきっかけになった」 天才・宇佐美貴史を覚醒させた言葉とは

2016年シーズンの開幕が迫るJリーグにおいて、注目選手の一人に挙げられる、ガンバ大阪の宇佐美貴史。

幼いころから「天才」と呼ばれた彼に訪れた、初めての挫折と葛藤の日々。あれほど好きだったサッカーが嫌になり、どんな時も決して揺らがなかった自信を失った。

「あの時があったからこそ今がある」と振り返る宇佐美を覚醒させた、ターニングポイントとは――。

名門の扉を開いた19歳の若武者

 挫折。

それは、宇佐美貴史にとって無縁の言葉だった。小学校時代から全国区でその名を知られ、家長昭博に続く京都府長岡京市が生んだ”天才”と称された。中3でガンバ大阪ユースに飛び級昇格し、高2でトップ昇格を果たした。その当時の宇佐美は、これから幾つもの壁はあるだろうが、挫折とは無関係なサッカー人生が続くと思っていたはずだ。

ドイツに行くまでは――。

2011年7月、宇佐美はドイツ1部の名門バイエルン・ミュンヘンに期限付き移籍を果たした。ユップ・ハインケス監督の下、チームメートにはフィリッ プ・ラーム、フランク・リベリー、アリエン・ロッベンといった各国の代表が顔をそろえていた。19歳の若者はG大阪で完全なレギュラーではなかったが、それでも「失うものはない」と、勢いで名門の扉を開いた。だが、第2節のヴォルフスブルク戦でリーグ戦デビューを果たしたものの、それ以降は、先発はおろか 18人のベンチ入りすらギリギリという日々が続いた。試合出場は簡単ではないと予想していたとはいえ、長期間試合に出られない状況は想像した以上に苦しい ものだった。

世界のトップレベルで学んだことは…

「周りは世界のトップレベルの選手ばかり。早くこの人たちに追い付きたいと思って練習に取り組んでいたし、それだけで成長できているという実感があった。 でも、いざ試合となると自分は19人目。メンバーに入れるかどうかの位置にいたんで、試合が始まる前の時間はすごくつらかった。精神的に落ち着かないし、 落ちたら落ちたでショックやしね。ただ、試合が始まると、すごい選手のサッカーを見られる。そういう楽しみがあったんでピッチに立てない苦しみがあったけ ど、バイエルンでの1年は自分にとっては有意義な時間やったなと思っています」

リーグ戦での試合出場はわずか3試合に終わったが、それでも得るものは多かった。練習からプロとしての姿勢やプレーを学ぶのはもちろん、日本の鋭くとがった才気あふれる若武者に監督やワールドクラスの選手たちは金言を与えてくれた。

「ハングリーになれ!!」

ハインケスからは、そう叱咤激励されたという。

「ハングリーになれっていうのは、単純に貪欲にプレーしろということだけではなく、見られ方の問題でもあると思うんです。自分が100%でやったなと思っ ても、監督やチームメートがあいつはやっていないと思ったら、それは100%じゃない。でも、80%でやっても、見ている人があいつは120%や、貪欲や なって思われれば評価される。評価されるためには、常に自分が思っている以上の良いプレーや変化を人に見せていかないといけない。自分はそういう意味のハングリーだと捉えていました」

心が折れ、悔し泣きをしたあの日

 ドイツで1年目を終えた時、宇佐美に足りなかったのは実戦経験だった。バイエルンではピッチ内外でいろいろなことを学んだが、それをピッチで表現する機会が必要だったのだ。バイエルンを出た宇佐美が最終的に選択したのは、育成で有名な中堅クラブのホッフェンハイムだった。

「試合に出て、しっかり結果を残すことしか考えてなかった」

シーズン序盤は高い技術とスピードが評価され、レギュラーとしてプレーした。だが、なかなか勝ち星に恵まれず、チームが下降線をたどると出番も減っていった。3月のマインツ戦以降はピッチに立てず、4月からはベンチ入りもままならなかった。しかも、シーズン中に4人もの監督が交代するなど終始、混沌と した状況が続いたのである。

「最初はともかく、途中出場が増えた時は結果を出してスタメンに定着できるまで我慢しようと思った。でも、徐々に試合に出られなくなって点も入らへん。 シーズン半ば過ぎからは自分が点を取ってチームを勝たせるとか、そういう余裕もなくなった。自分が1点を取れば、チームが負けてもいいんちゃうかなって思うぐらい追い詰められた。点を取らないと試合に出られないし、自分の居場所を失うんで。バイエルンの時に生き残る厳しさを学んだけど、ここであらためて結果が全てというのを痛烈に感じました」

シーズン後半、チームはダッチロール状態となり、残留争いに陥った。宇佐美も守備要員として屈辱的な起用をされた。

「俺、何してんのやろ」

練習の帰り道、ハンドルを握り締めたまま、車の中で思わず悔し泣きをしたこともあったという。

「試合に出て、結果を出すために試行錯誤するのがサッカー選手。でも、その時の俺はサッカー選手でもなんでもなかった。正直、もう日本に帰ってもいいんか なって思ってた。ほんまにつらかったし、練習に行くのも面倒やなって思ったから。たぶん、嫁さんがおらんかったら日本に帰っていたと思う。でも、ガンバが レンタルで出してくれているわけやし、家族も連れて来ているんで、うまくいかへんから帰ろうとか無責任なことは言えへんなぁって。でも、すぐにこのままで ええんかなぁと考えてしまう。シーズンが終わるまでその葛藤が続いた」

葛藤の日々を経て導き出した結論

 暗転していく自身のサッカー人生に活力を失い、大きな喪失感だけが残った。気持ちをつなぎ留めようと、試みても一向に変わることのない現状に心が音を立てて折れた。

結局、葛藤の日々が好転することはなかった。ホッフェンハイムでは、20試合出場2得点。長く、つらいシーズンが終わりを告げた。

「これがほんまの挫折やなって思いましたね。心が折れまくっていたんで。今まで経験してきた壁とか挫折はちっぽけなもんだったと、そこで初めて気付きました」

だが、落ち込んでいる暇などなかった。新たな移籍先を探して欧州に居続けるべきか。それとも前年にJ2リーグに陥落し、J1昇格に向けて戦っている古巣に戻るのか。決断の時は迫っていた。

「めっちゃ考えました。ブンデスの1部のチームに移籍すれば、また次のステップがあるかもしれない。でも、ガンバはJ2に落ちて、もう後がなかった。自分 のハードルとしてどちらが高く厳しいかを考えた。最終的にガンバに戻ることに決めたけど、退路を断っての決断でした。もし、J2のガンバに戻って試合に出られない、結果も出ぇへんかったらサッカーやめようって思った。そのころは、サッカーが面白くなかったし、自信も失っていた。そこまで落ち切りましたから ね。そのくらいの気持ちでやらな、失ったものを取り戻せない。だから、自分の中ではガンバに戻って半年間が大きな勝負やなって思っていました」

覚醒した宇佐美が感じた、あの日と近い感覚

 意を決しての古巣への復帰。そこで与えられたポジションは、以前の主戦場だったサイドではなく、最前線のFWだった。長谷川健太監督は、初練習で宇佐美をそのポジションに置いたのだ。狙いはシュートの巧さと得点能力の高さを引き出すことだった。だが、これが功を奏す。宇佐美は徐々に輝きを取り戻し、ゴー ルを量産し始めたのである。

「実は、今まで一番サッカーが面白かったのが中2の時なんです。その時は2トップだったけど、自分は1.5列目でどこにいてもいい感じでプレーしていた。 今回は、その14歳の時と近い感覚でプレーすることができて、すごく楽しかった。サイドって縦への突破とカットインしてシュートとか、そういう限られた攻 撃しかできないけど、FWでトップ下あたりにいると、どこからでもボールが入ってくるし、プレーできる範囲や方向が増える。自分の幅がかなり広がりました ね」

J2では18試合19得点とほぼ毎試合1点ずつを決め、G大阪のJ2制覇、J1昇格に大きく貢献した。昨年は復帰を果たしたJ1でエースとして三冠を達成。その圧巻のプレーは、ドイツで鬱積した思いと学んだモノを一気に吐き出しているようにも見えた。

昨シーズンは日本代表にも復帰し、得点王争いも演じてみせた(最終3位)。純然たるストライカーではないが、点取り屋としての能力に磨きが掛かった。

見聞きした言葉と、実体験が宇佐美の肥やしとなってきた。新たな定位置の参考にしたのも、ドイツ時代に見たある選手だった。

「ドルトムント4-5-1の真ん中をやっていたマルコ・ロイスが印象に残っています。自分のイメージする真ん中の選手って点が取れて、パスを出せて、走れ て、ポストになるとかいろんなことをやれる。それを全部こなすんでほんまにすごいなって思ってた。でも、ロイスになろうとは思わなかった。参考にはなるけど自分は自分なんで」

そう言い切るところに、自分のスタイルへの確固たる自信が読み取れる。宇佐美の理想のポジションはFWの9番、9.5番だ。そこにいることが最も相手に 脅威を与え、一番点を取れるという手応えを感じているからだ。そして、ゴールへの意識が高まるごとに、バイエルン時代のチームメートだったリベリーの「エ ゴイストになれ」という言葉が脳裏で呪文のようにリフレインした。

リベリーの言う「エゴイスト」の真意

「エゴイストって点さえ取れればいいやんって感じで捉えられているけど、そうじゃない。エゴイストというのは俺が勝利に導きたい。俺のゴールで勝たせたいとか、そういう強い気持ちを持っている選手がエゴイストなんです。ロッベン、リオネル・メッシ、クリスティアーノ・ロナウドとかはそうやけど、それができ るってものすごい能力がないと無理。それに自分で決めるだけじゃなく、GKと1対1になってフリーの味方がいて、そっちが決める確率が高いと、リベリーはポンとパスを出す。マリオ・ゴメスは何点それで助けられたことか。

実はそういうパスを出せる選手が一番点を取って、一番給料をもらえて、一番観客を集められて、一番影響力がある選手になれる。だから、リベリーは自分に言ってくれたんやと思う。おまえは自分でアクションを起こして、自分のゴールでチームを勝たせられるエゴイストになれって。そういうこだわりというか姿勢がないとリベリーみたいなスター選手にはなれない」

ドイツから帰還して2年半になる。新境地を開き、野心のつぼみも膨らんだ。得点王になってG大阪に多くのタイトルをもたらした後、もう一度海外でリベンジする。まだ23歳、再挑戦するにはちょうどいい年齢だ。

「ドイツに19歳で行けたのはベストのタイミングだった。そのままずっとドイツにいるのが理想だったけど、21歳でいい意味で諦めて戻って来た。そして、 ガンバでいろんな経験をして、もう一度、自分をつくり直すことができた。だから、あの時、ドイツに行ってほんまに良かったと思う。そう振り返ることができ るのは今があるからやし、あの2年間があったからこそ今の自分がある。サッカー人生の全てを変えるきっかけになりました」

そう言うと一瞬、間を空けて小さな笑みを浮かべて、続けた。

「でも、ドイツに行ってなかったらどないなってたんやろ。逆にそれ、知りたいですね」

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