育成のキーマンが語るそれぞれのスタイル J2・J3漫遊記 G大阪&C大阪U-23 後編

G大阪とC大阪の36年に及ぶ「因縁」

ガンバ大阪U−23とセレッソ大阪U−23による大阪ダービーについて、私は「育成型クラブとしての負けられない戦い」という仮説を立ててみた。こ こであらためて、両クラブの「因縁」について考察してみることにしたい。「大阪ダービーって、たまたま大阪府にあるふたつのJクラブが煽り合っているだけ でしょ?」という発言をたまに耳にすることがある。その意見は半分は正しいが、半分は間違っている。あと付けされた対立項は確かにあるだろうが、両者の前 身である松下電器産業サッカー部とヤンマーディーゼルサッカー部の間に存在する、36年にも及ぶ深い「因縁」は看過すべきではない。

1980年設立の松下の源流をたどると、ヤンマーのセカンドチーム『ヤンマークラブ』に行き着く。当初は同好会的な存在だったヤンマークラブは、やがて力 をつけてJSL(日本サッカーリーグ)2部まで上り詰める。しかし会社側の都合で79年に解散。このとき監督だった水口洋次が、数名の選手たちとともに新 たに創設したのが、松下電器産業サッカー部であった。松下は、ライバルの少なかった奈良県サッカーリーグ2部を振り出しに各カテゴリーを駆け上がり、85 年にヤンマーと同じJSL1部に昇格。監督の水口は、のちに松下がG大阪となってJリーグに参戦するときにも大いに尽力した。

育 成組織の立ち上げについても、G大阪とC大阪との間には興味深い「因縁」がある。G大阪がJリーグのオリジナル10となるにあたり、問題となったのが「下 部組織の保有」。前身の松下は下部組織を持っていなかったため、初代監督となる釜本邦茂が現役引退後に立ち上げた「釜本FC」という少年クラブを改組し、 G大阪の下部組織に組み込むこととなった。釜本FCそのものは、ヤンマーとは直接関係なかったが、釜本自身はヤンマー出身の不世出のストライカー。Jリー グ入りが見送られたヤンマー側に、この状況を面白くないと考える人がいたとしても不思議はないだろう。

65年の開幕当初からの JSLのメンバーだったヤンマーではなく、JSL1部在籍が5シーズンを数えるのみの松下が、なぜ栄えあるJリーグのオリジナル10に選ばれたのか。その 真相はよく分かっていない。それから2年後の95年、ヤンマーはC大阪としてJクラブの一員になるのだが、先行していたG大阪には育成の分野で大きく水を 開けられていた。G大阪は同年、ユース一期生の宮本恒靖らがトップチームに昇格。一方のC大阪は育成に関しても、右も左も分からぬ状態であった。

「遊び心」と「継続性」を重視するG大阪の育成

ここで両クラブの育成のキーパーソンに、それぞれの育成の方針と哲学について語ってもらおう。まずはG大阪の取締役アカデミー部長、上野山信行。ヤ ンマー出身の上野山は、若くして現役を終えた後に釜本FCのコーチとなり、そのままスライドしてG大阪ユースの初代監督となった。教え子には宮本をはじ め、稲本潤一、新井場徹、橋本英郎、二川孝広といったそうそうたる顔ぶれが並ぶ。それでも黎明(れいめい)期の頃は、何かと苦労も少なくなかった。

「ユー ス立ち上げの頃は、グラウンドを転々としていましたね。トップと育成が万博に集められたのは、稲本が(トップに)上がった年だから97年ですか。その後、 ナイター設備も立派なものを作っていただきましたが、始めたばかりの頃は施設面を含めて大変でしたよ。ただし、いい意味で私の好き勝手にやらせてもらえた のはありがたかったですね。というのも当時、会社の人たちはトップチームのほうばかりに目が行っていて、育成に注文をつける人は誰もいませんでしたから (笑)」

いかにもJリーグ黎明(れいめい)期らしいエピソードである。が、上野山が現場でいちから育成スタイルの構築に専念でき たことは、その後のG大阪の礎(いしずえ)を築いたという意味で極めて重要であった。そこで完成された育成メソッドは、その後も脈々と受け継がれてゆく。 では、G大阪の不変の育成方針とは何か。上野山が挙げたのは「遊び心」と「継続性」であった。

「セレクションでは、ボールを持った らスムーズに動けること、そしてすっと視線が上がることを重視していますね。それとプレーが精いっぱいなのか、ある程度余裕があるのか。僕は多少、遊び心 がある選手のほうがモノになると思っています。われわれの一番の目的は、プロとしてお客さんに感動と驚きを与える選手を育てることですから。それともうひ とつ。育成は専門職ですから、クラブの考え方を熟知したスタッフに継続性をもって指導させています」

上野山の語る育成メソッドの 話は、非常に興味深いものではあるのだが、あえてU−23に話を戻す。この取材を始めた当初、私はG大阪U−23が「Bチーム」の扱いであると認識してい た。しかし、どうやらそれは暫定的な判断であったようだ。上野山によれば、来季以降はU−23の位置づけを変えていくという。

「実 はウチもセレッソさんと同様、U−23は『育成』と捉えています。今季はACL(AFCチャンピオンズリーグ)もあったし、資金面の問題もありましたので 『トップの管轄』としました。ただし来季は(トップから)すぱっと切り離して、完全に育成チームにすることを考えています。それでも、トップとU−23の 監督がしっかり連携していけば、ひとつの軸はできるし、同じコンセプトでやっていくことになると思います」

ライバルとは異なる方向性を模索したC大阪の育成

柿谷曜一朗、山口蛍、そして南野拓実。ここ数年、日本代表にタレントを輩出し続けているC大阪の育成のキーパーソンにも登場してもらおう。「上野山 さんはヤンマーの大先輩です(笑)」と語る取締役チーム統括部長の宮本功は、92年にヤンマーの選手としてデビューし、94年にC大阪の選手として現役引 退している。企業チームからJクラブとなる過渡期をピッチ上で過ごしながら、Jリーガーにはなれなかった宮本は、その後10年にわたり社業に専念。クラブ に戻ってきたのは04年のことであった。

「04年の10月にセレッソに出戻りしてきたんです。それからはスクールと育成をずっと私 がやっていました。正確に言うと、08年と09年は育成部というのを作って、僕は事業部にいたので他の者に任せていました。あまり職歴として表には出して いないんですが、その2年間を除けば一貫してスクールと育成を見てきました。チーム統括部長となったのは今年の2月からです」

ク ラブと宮本にとって転機となったのは、トップチームがJ2に降格した07年であった。予算規模が縮小する中、活路を求めたのが「育成型クラブへの転身」。 ファンから一口3000円の協賛金を集めて、全額を育成年代の選手の栄養費や遠征費(海外含む)に投資する『ハナサカクラブ』がスタートしたのもこの年 だ。同年5月、10年ぶりにC大阪監督に復帰したレヴィー・クルピが、若手選手を積極的にトップチームに引き上げたことも幸いした。結果として「育成型ク ラブへの転身」は、クラブが生き残る上で唯一無二の道となったわけだが、大阪でその地位を確立するのは容易ではなかった。

「当時は ガンバユースが絶対的な存在でしたからね。何とかキャッチアップするために、どんな手を打てばいいのかいろいろ考えたんですけれど、やるべきことが多すぎ て(苦笑)。ただ、ウチの育成システムを作るにあたって、ガンバさんの仕組みは参考にしていません。というのも、彼らは北摂で僕らは大阪の南のほう。地域 性も違えば、向き合う相手も違う。経済的な話にしても、ウチとガンバさんとでは育成にかけられる額が違うし、親御さんの平均収入にも差がある。だからこ そ、ハナサカクラブは非常に有効でした」

最後に、U−23の位置づけについて聞いてみた。監督の大熊裕司は、C大阪における「アカデミーの最上位機関」と語っていたが、その認識で間違いないのだろうか? 宮本は「ご指摘のとおりです」と認めた上で、U−23を持つアドバンテージについてこう語った。

「U−18 チームの3年間に、さらに(U−23の)5年間が加わることで、われわれの強みとすることが目的です。3年間だけでは伸び悩む選手もいるし、J3で経験を積むことでより速い成長が望めるかもしれない。今回のダービーだって、トップに上がった時のことを考えたら、絶対に意味があると思いますよ。いずれにして も、選手の成長を促すための確率を上げていくことを、われわれは追求しています」

「ナンバーワン」ではなく「オンリーワン」の育成

育成のフィールドでも、追いつ追われつの関係で競い合ってきたG大阪とC大阪。本稿を締めくくるにあたり、両クラブの育成の現場を知る人物に登場し てもらおう。現在、四国リーグの高知ユナイテッドSCで監督を務める西村昭宏。91年にヤンマーで現役を終えた西村は、G大阪の初代監督に就任した大先輩 の釜本から「ウチで指導者にならんか」とオファーを受ける。駆け出しコーチとなった彼は、G大阪ユースの黎明(れいめい)期に立ち会うこととなった。

「ガンバの育成に関しては、やっぱり初代監督のヤマさん(上野山)の考え方が大きかったと思いますよ。ボールを自分たちで保持するために、何が必要なのかを突き詰めていく。その哲学は、二代目のユース監督だった僕がそのまま引き継いで、さらに受け継がれていきました」

G大阪ユースでの実績が認められた西村は、01年にはU−20日本代表監督としてワールドユース(現U−20ワールドカップ)に出場。さらに、C大阪、京 都パープルサンガ(現京都サンガFC)の監督を経て、04年から07年までC大阪のチーム統括部ゼネラルマネージャー(GM)に就任している。一度はトッ プチームの監督を解任されたにもかかわらず、GMとして招へいされたのには、前出の宮本の強い意向があったという。

「宮本さんから は『強化の全権を任せる』と言われましたし、自分でも以前から『セレッソの育成を何とかせなあかん』という思いがありました。何しろスタッフがミーティン グをする場所もなくて、喫茶店で打ち合わせをしていましたから(苦笑)。それではあかんと(クラブハウスの)筋トレルームを潰して、育成スタッフ専用の拠 点を作りましたよ」

G大阪については「トップチームの経営が厳しくなったときにも、育成への投資を続けてきたこと」を評価し、C 大阪については「宮本・大熊体制が確立して以降は、育成でも目立った成果が見られるようになった」と分析する西村。「両クラブの育成を比較してほしい」と いう私のリクエストに対しては、明言を避けながらこのように結論づけている。

「結局のところ、ガンバにしてもセレッソにしても『ナ ンバーワン』ではなく『オンリーワン』なんだと思います。何だかSMAPの歌みたいですが(笑)。どちらがいい、悪いという話ではなく、それぞれの育成シ ステムと指導者養成が競い合うことで、日本のサッカーのレベルがさらに高まってほしい。それが、JFA(日本サッカー協会)でも仕事をしていた僕の願いで すね」

J3の大阪ダービーをきっかけに、両クラブの育成におけるライバル史をひも解いていくと、キーパーソンとなった人々は必ず どこかでつながっていることに気付かされる。もともと狭い業界であることに加え、ヤンマークラブの消滅、松下のJリーグ参入といった外的要因が重なり、関 西サッカー界の人材は「青黒」と「ピンク」の間を行ったり来たりしている(最近では、元G大阪監督の松波正信がC大阪U−18コーチに就任して話題になっ た)。互いに激しく競い合いながらも、それぞれの持ち味を出しながら高め合っている。育成という視点から見れば、大阪ダービーは極めて理想的な補完関係に あるのかもしれない。

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