【追憶のあなたへ】G大阪「中興の祖」佐野泉さんに誓う播戸の決意

Jリーグ・G大阪の社長を2002~08年まで務め、05年にリーグ初優勝を達成した佐野泉さんが7月10日、がんのため71歳で亡くなった。チームをリーグ屈指の強豪に育て上げると同時に、選手やファンからも愛された佐野さんの下で06年からG大阪でプレーした大宮のFW播戸竜二(37)は、共に過ごした時間を振り返ると同時に「思いを継いでいきたい」と“佐野イズム”の継承を誓った。(高柳哲人)=16年8月28日掲載=

今年の1月3日、春日大社に一緒にお参りに行った後、奈良市内にある佐野さんの自宅でアメフトの日本一決定戦・ライスボウルを観戦した。佐野さんはG大阪の“兄弟チーム”であるパナソニックインパルスの優勝に大喜びだったそうだが、それが顔を合わせた最後になった。

「佐野さんは『パナソニック愛』がすごく強くて。『来年も、こうやって一緒に見よう』と話していたんですが…」。J1の公式戦と通夜、葬式が重なったため出席できなかった。

2002年に親会社から出向して社長に就任した佐野さんは、サッカーのことはほとんど何も知らなかったが「ハード面の充実なくして強化なし」という考えで、チームづくりをしていたという。「社長になった当初は、資金に余裕ができたら選手の補強よりも先に、まずはグラウンドや照明設備などを整備した。その後に初めて、選手をそろえようという方針だったそうです」

自らの仕事は、選手がベストのパフォーマンスを出せるためのバックアップ。その思いは選手やファンに自然に伝わり、名物社長となった。ファンからは「泉さん」「泉ちゃん」と呼ばれ、気さくに交流。08年には背番号の代わりに「泉」と書かれたユニホームをモデルにした携帯ストラップなどのグッズが作られ、人気を集めた。選手ではなく社長のグッズは、極めて異例だ。

選手では、播戸以外にも現在、G大阪所属の遠藤保仁(36)、明神智和(名古屋、38)、昨年現役を引退した山口智(38)らが「門下生」。その中でも播戸がかわいがられていたのは「朝の会話」が理由だったという。

「僕は06年にチームに戻ってきたんですが、最初に会った時は『怖い顔をしているな』という印象(笑い)。でも、話してみたら選手への愛にあふれた方でした。佐野さんは毎日、奈良から大阪まで通っていたんですが、どの社員よりも早く会社に来ていた。当時、僕も選手の中ではかなり早い方で、筋トレなどをしていて、よく顔を合わせたんです。それで、いろいろと話すようになりました」

佐野さんは播戸には「朝、渋滞に巻き込まれるのがイヤだから、早く家を出るんだ」と話していた。「でも、それは本人の照れ隠しだったんじゃ。チームのために何ができるか、早く来て考えていたんでしょうね」と振り返った。

播戸が10年にチームを移籍後も、折に触れて電話をくれた。「『なんや、(試合に)出てないんか。バンちゃんが出るのを待ってるんや』と励まされたり。点を取った時には、喜んで連絡してくれましたね」。多くを言わないのは佐野さんの「選手は試合に出て、その結果がすべて」「その結果は自分で導くもの」というメッセージだと読み取っていた。

「直接、言葉で言われたことはありませんが『まずは自分がプレーをして、活躍をすることが後輩を育てることになる』という思いが、佐野さんからは伝わってきていました」。播戸自身も年齢的に、若手を教育する立場になりつつあるが「後輩に声をかける時にも、細かいことは言い過ぎない。自分で学んでくれればいいと考えています」。佐野さんの教えを自らの中で消化し、次の世代に伝えようとしている。

「佐野さんは、ガンバの土台を作った人であると同時に、人を残してくれた人。僕も、その一人としてこれからもサッカー界に生きていきたいと思います」。大宮のホームページにある「Q&A」のコーナーで「将来の夢」に「Jリーグチェアマン」と記されているのは、佐野さんの教えを生かす集大成のつもりだ。

◆播戸竜二(ばんど・りゅうじ)1979年8月2日、兵庫県神崎郡(現・姫路市)生まれ。37歳。98年、琴丘高からG大阪へ入団。00年に札幌に移籍し、神戸を経て06年にG大阪に復帰。10年にC大阪へ移籍し、鳥栖を経て15年から大宮に所属。171センチ、65キロ。血液型B。

◆佐野泉(さの・いずみ)1944年7月12日、東京都生まれ。69年、慶大経済学部卒業後に松下電器産業(現・パナソニック)に入社。暖房器事業部人事課に配属。77年、松下住設機器に出向し、91年12月に復帰。教育訓練センター所長、本社秘書室長などを経て、2002年4月にG大阪へ出向。同年6月に社長に就任。08年4月に任期満了で退任した。

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