播戸竜二が語る世界2位。日本には 「小野伸二という『太陽』がいた」

1999年3月15日、ワールドユース(現U-20W杯)・ナイジェリア大会に出場するU-20日本代表メンバー18名が発表された。

「(自分の)名前があったんはうれしかったし、ホッとしたね。また、このメンバーでサッカーできるんやって思ったんで」

播戸竜二は当時を思い出して、顔をクシャクシャにしてそう語った。

そのメンバー発表から遡(さかのぼ)ること1年前、播戸はガンバ大阪に入団した。当初練習生扱いだったが、しばらくしてプロ契約を勝ち取った。

同年8月には、ワールドユースのアジア最終予選(アジアユース選手権)を目前に控えたU-19日本代表に招集され、SBSカップに出場。そこでのプレーが、当時同チームを率いていた清雲栄純監督に評価され、最終予選に挑む代表チームにも選出された。同大会では全6試合に先発出場し、日本の世界大会出場に貢献した。

この時、播戸の胸中には特別な思いが込み上げたという。

「SBSカップからアジアユースと、みんなと一緒にサッカーができるのは、幸せでしかなかったね。当時、ガンバではプロ1年目で、試合に出ることに必死で、楽しいとか考えている余裕なんて、まったくなかった。でも、代表で(小野)伸二やイナ(稲本潤一)らとプレーして、ホンマに楽しいなって思ったし、少しでも長く一緒にプレーしていたかった。だから(この時)、こいつらに離されないように『がんばってサッカーをやりたい』という気持ちがすごく強くなった」

清雲監督のあと、同代表チームはA代表との兼任でフィリップ・トルシエ監督が指揮することになった。播戸の気持ちは、より代表に傾いて「ガンバでどうこうよりも、代表でやりたい」と思っていたという。そうして、大会2カ月前のブルキナファソ遠征を経て、播戸は本大会のメンバー入りも決めた。

だが、メンバーリストを見て、播戸はハッとした。

「びっくりしたね。『えっ、永井(雄一郎)くんも?』って。(1997年ワールドユースにも出場していて)『2回目やん。1回出たし、もうええやん』って思ったもん(苦笑)」

ワールドユースのレギュレーションが1999年大会から変更され、それまで1回しか出場できなかったものが、年齢さえクリアしていれば、複数回の出場が可能となった。そして、トルシエ監督の要望もあって、当時ドイツでプレーしていた永井が急きょ招集された。

同チームにおいて、FWは高原直泰が一番手で、アジア予選ではそのパートナーを播戸が務めていた。しかし、強力なライバルの出現で、播戸のスタメン出場は怪しくなった。代表入りに喜んだのも束の間、播戸は早々に試合に出られない覚悟を決めていたという。

「メンバーを見たら、自分(の立ち位置)がどこにおんのか、わかるよね。あの時も、スタメンを狙うというよりも、サブとして『このチームにどう貢献できるか』っていうことをすぐに考え始めた。それがええのか、悪いのかわからんけど、ガンバでも途中出場が多かったし、そういう状況に慣れているっちゃ、慣れていたんで」

直前のフランス合宿を経て、開催地のナイジェリアに入る前、播戸は”控え組”としてのルールを自らに課した。

「まず、チームの輪を絶対に乱さないこと。チームの雰囲気をよくするために、ムードメーカーになること。練習中から盛り上げて、試合に出たら結果を出す。そして、トルシエ監督をイジる。

監督をイジるっていうのが(チームが)一番盛り上がるんやけど、それをやったら、トルシエ監督もちょっとうれしそうやったんで、これはイケるな、と。(チームが結果を出すうえでは)監督と選手の間で、いかにいい関係を作れるかっていうのは、すごく大事なことやからね」

大会が始まって、初戦のカメルーン戦は1-2で敗れた。それでも、播戸曰く「まったく悲壮感はなかった」。通常、国際大会の初戦を落とすと、グループリーグ突破がかなり難しくなり、チーム内に動揺が走るものだが、そんな空気は微塵も感じられなかったという。

「これで『終わりやな』っていう雰囲気がなくて、『次、またがんばろうぜ』って感じやったね。なぜ、そうなれたか? それは、自分たちに絶対的な自信があったから。この時だけじゃなくて、いつも(このチームは)自信満々やった。

みんな、昔からサッカーがうまくて、その地域では敵ナシ。”王様”だった。それは、いくつになっても変わらへん。だから、この時も『自分たちのほうがうまいし、ええサッカーをしている』『次、勝てばええやん』と、自分も思っていたし、そういう強いメンタルをみんなが持っていたと思う」

結果、日本は決勝まで勝ち進んでいくのだが、最初に大きな”壁”となったのは、決勝トーナメント1回戦のポルトガル戦だった。

播戸は、ポルトガルには「絶対に負けたくなかった」と言う。それは、ホテルでの出来事が引き金になっていた。

「ポルトガルとは同じホテルだった。食事会場に行くと、俺らのテーブルにあったのは、うどんみたいなパスタと、鶏のささみにブロッコリーとニンジンとか……。トルシエ監督は『これ食って、勝たないといかんのや!』って言うんやけど、俺たちは『マジかよ!?』って思った。

で、ポルトガルの食事を見てみると、大きなブロックの生ハムを切って、美味しそうに食べていた。それを見て『おい、あいつらには絶対に負けんとこーぜ』って、みんな、燃えたね」

勇んで挑んだポルトガル戦は、播戸にとって、最も印象に残っている試合だという。

この試合、後半早々に日本が先制するが、その後、ポルトガルのGKが負傷退場。交代枠を使い切っていたポルトガルはフィールドプレーヤーがGKとなり、ひとり少ない10人で戦うはめになった。そこから、ポルトガルの反撃が俄然強まって、後半35分に同点ゴールを奪われ、試合は延長戦に突入した。

延長戦を前にして、トルシエ監督は播戸を呼んでピッチに投入した。

「点を取ってこい」

トルシエ監督の檄を受け、ピッチに立つと、延長後半にチャンスが巡ってきた。小野からのスルーパスが、裏に抜けた播戸の足もとにピタリと収まったのだ。

「これ、チャンスやん」

ドリブルからペナルティーエリア内に侵入し、左足でシュートを放った。

「これ、決まったらVゴールやん。俺、ヒーローやん」

そんな思いが頭をかすめたが、播戸のシュートは”素人GK”の正面に飛んで、まんまとキャッチされてしまった。

「あの時、『これで、俺も終わったな』と思ったね。弾くとかじゃなくて、素人のGKに完璧にキャッチされたんで……。

その後、PK戦になって蹴りたい選手が挙手したんやけど、5人目がなかなか決まらんかった。誰もいかないんで、俺がいかなあかんかなって思ったけど、素人のGKにシュートを止められて、PKまで止められたら、ホンマにヤバイなって思って、当時19歳の俺はちょっとビビってしまった。『あ~、ホンマに自分は弱いなぁ』って思ったね」

結局、PK戦は日本の選手がきっちり決めていくなか、ポルトガル4人目のPKをGK南雄太が止め、最後に日本5人目の酒井友之が冷静に決めて勝利した。

「勝って、ホッとしたわ。シュートを外して負けたら、えらいことになっていた」

播戸は苦笑いを浮かべて、当時のことを振り返った。

このポルトガル戦の勝利を経て、チームはさらに結束し、勢いがついた。とはいえ、チームに生まれた強固な一体感は、試合の結果がすべてではない。他にもいくつかの要因があると、播戸は思っていた。

「一番は、伸二の存在ちゃうかな」

播戸はそう断言した。

「小野伸二という絶対的な”太陽”がいたのが大きいと思う。だって、その前年の6月にW杯(日本が初めて出場した1998年フランス大会)に出てんねんで。そんなこと、俺らの年齢で、当時もやけど、今もあり得る? プロ1年目の選手がW杯に出るなんて、今だってないでしょ。

そういう実力にプラスして、あいつは人としてもええヤツやし、気配りもできるし、リーダーシップも取れる。だから、自然とみんながついていく感じやった。それで(チームは)ひとつにまとまったんやと思う」

チームの誰もが、小野には一目置いていた。

どの世代にも「こいつは」という選手内でも認められる選手が必ずいる。小野はこの世代では、実績、技術、人間性……あらゆる面において別格だった。そんな優れたリーダーに導かれ、「優勝」という目標に向かってひとつになって戦うことで、チーム自体が成長し、日本は世界を驚かせるチームになっていった。

リンク元

Share Button