メキシコから東京五輪へ “プロ経験なし”の日本人コーチ、異国で切り拓いた指導者の道

【U-23メキシコ代表・西村亮太コーチの挑戦|前編】メキシコで指導者資格を取った34歳、大学院卒業後に留学
メキシコから指導者として東京五輪出場を目指している日本人のコーチがいる。U-23メキシコ代表の西村亮太コーチだ。プロ経験のない34歳は、メキシコで指導者資格を取り、どのようにして北中米カリブ海のサッカー大国でU-23代表コーチにまでのし上がることができたのか。

アステカの眩しい日差しの下、緑、白、赤のトリコロールのジャージに身を包み、メキシコ人の監督とともに若き代表選手たちを指揮する西村氏。五輪代表コーチの座は、サッカーが国技と言われるメキシコで、プロ選手としての経歴がないというハンデを背負い、元プロがひしめくメキシコ人の指導者たちの中で揉まれ、あがいてつかんだポジションだった。

大阪府出身の西村氏は大塚高、天理大でDFとしてプレー。子供の頃はJリーガーに憧れていたが、実力的に無理だと判断し、大学卒業時に現役を引退。指導者の道を目指し、筑波大の大学院で学生コーチとして指導者のキャリアをスタートさせた。

「高校の時のチームは大阪府でベスト16くらいのレベルでした。練習試合でガンバ大阪ユースの選手や国体メンバーに選ばれている選手たちと対戦して、これはたぶん無理だなと思い、指導者としてやっていこうという考えになりました。大学の時は、(イビチャ・)オシムさんのサッカーの虜になり、彼の本をひたすら読み漁っていました」

当時、日本とメキシコ両政府による「日墨研修生・学生等交流計画」(現・日墨戦略的グローバル・パートナーシップ研修計画)という1年間の留学制度があり、日本サッカー協会が毎年数名の候補者を募集し、外務省に推薦していた。大学院の同じ研究室の先輩がこの制度を使ってメキシコに留学していたことを知り、西村氏も応募。選考に合格し、大学院卒業後の2010年8月から1年間メキシコに渡った。

「当時は、メキシコサッカーを手本にしたら日本は成長できるんじゃないかという風潮がありました。もともと日本を出たいと思っていましたし、メキシコなら奨学金も出る。1年間スペイン語を勉強して、その後はスペインかアルゼンチンか、どこか違うスペイン語の国に行こうと思っていました」

「ここで挑戦してみたい」 留学期間後に再びメキシコへ、無給でクルスアスルに所属
高い志を持って渡ったメキシコでは、草サッカーレベルでも真剣に勝利を目指すメキシコ人たちの姿に衝撃を受けた。

「彼らは道端でやるサッカーでも、勝つためのプレーをする。上手くなくても、勝つために何をしなければいけないかを分かっている。こいつは潰さないといけないとか、ここはファウルで止めないといけないとか。球際も、日本ではガチでいくと周りに注意されていたけど、メキシコは緩さが全くない」

肘打ちや、足を踏まれるのも当たり前。審判が見ていないところでは殴られたこともあったという。

だが、1年の留学期間を終える頃、西村氏の気持ちは変わっていた。留学期間中は、監督学校に聴講生として通学。メキシコシティを本拠地とするクルスアスルやプーマス(UNAM)の下部組織の練習を頻繁に見学し、そこから人脈を広げ練習の手伝いもするようになっていた。

「正直、ここで成功するのは難しそうだなと思いました。でも一方で、メキシコで指導者としてやっている日本人はほとんどいなくて、ここで挑戦してみたいなとも思ったんです」

いつの間にか、頭の中からスペインやアルゼンチンへ行く選択肢は消えていた。留学報告のため一旦帰国した西村氏は、2週間後、迷うことなく再びメキシコに渡ると、監督学校入学の手続きを済ませ、並行して指導者としても動き出した。

最初の所属先は、監督学校で知り合った友人のいたクルスアスルだった。クラブ内の5部チームのコーチとして所属。だが給料は無給だった。

「ちゃんと雇ってほしかったんですが、『直に契約するから待ってくれ』という状態が続いて、一向に契約してもらえなかった」

生活が苦しくなってきたこともあり、約1年でチームを去った。

その後、メキシコシティにあるパチューカの支部の下部組織で働いた後、正規雇用のスクールコーチとしてクルスアスルに戻ると、その数カ月後にはU-20、U-17のGKコーチ兼アシスタントコーチとしてオファーを受けた。

「GKの経験はなかったんですが、プロの卵たちがいる環境でできるし、いいかなと」

そして2013年夏に、晴れて監督学校を卒業。メキシコでトップチームの監督ができる資格を手にした。だが、お門違いのGKコーチの仕事には馴染むことができなかった。「クルスアスルはそろそろ潮時かなと思った」という西村氏は、すぐに動いた。

カイシーニャ監督、ロサーノ監督の下で働きたいと猛烈な売り込み
当時、メキシコの1部リーグで唯一、外国人監督としてチームを指揮していたのが、北中米カリブ海チャンピオンズリーグで決勝に進出するなど、評価の高かったサントス・ラグーナのポルトガル人、ペドロ・カイシーニャ監督だった。カイシーニャのサッカーに興味を持っていた西村氏は、知人を通じて連絡先をもらい、チームが遠征でメキシコシティに来た時に本人に直接連絡。練習を見学し、スタッフとも仲良くなると、今度はサントス・ラグーナの本拠地トレオンまで出向き、強化部長に採用を直訴した。

急な売り込みの返事は当然「今は無理」というものだったが、西村氏は諦めずに試合分析や練習メニューなどを映像も含めて送り自己アピール。その甲斐あって、その年のシーズン終了後、サントス・ラグーナへの移籍を勝ち取った。

新天地では分析官からスタートした。トップチーム、U-20、U-17の自チーム分析や対戦相手のスカウティングと並行し、U-20、U-17ではアシスタントコーチも兼任。その後、U-17コーチ、サテライトのコーチを務めた。サントス・ラグーナで2年間を過ごした後、2016年には同じオーナー会社が保有する2部のタンピコマデロに派遣され、トップチームのコーチに就任。順調に指導者としての階段を駆け上がっていった。

だが、タンピコマデロでは軋轢もあった。西村氏以外のスタッフは、すべて監督が連れてきた人材。唯一、クラブ側の選定でコーチに就いていた西村氏にとっては、やりやすい環境ではなかった。「このままでは病んでしまう」と感じ、サントス・ラグーナに戻してもらうよう打診したが、それが実現しないと知ると、新天地を求め、再び売り込みを始めた。

そんな時、ちょうど耳に入ってきたのが、監督学校で同期だった元メキシコ代表のハイメ・ロサーノが1部ケレタロの監督に就任するという噂。西村氏はサントス・ラグーナに移籍した時のように、分析した映像や練習メニューなどを送ると、ロサーノから「一緒に来てくれ」というオファーが届いた。

このロサーノが、後にU-23メキシコ代表監督として、ともにタッグを組むことになる人物だ。西村氏にとっては、日本人初となるメキシコ1部のトップチームコーチという立場。当然、ここで結果を残そうと燃えていた。だが、豊富な資金力を元に、選手をかき集める強豪チームをなかなか倒すことができず、2017年前期は5勝4分8敗で18チーム中15位。後期のシーズン終盤には、成績不振によりロサーノ監督とともに解任され、チームも最終的に3勝7分7敗で16位に低迷する無念のシーズンとなった。

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