引き際は今ではない…元日本代表橋本英郎 輝ける場所を求め、もがき続ける

「このままでは終われない」-

ガンバ大阪などで活躍した元日本代表のMF橋本英郎(42)が、現役へのこだわりを明かした。昨年12月に契約満了によりJ3今治を退団。年明けには自身のSNSに「引退」の文字を記し、揺れる心境を漏らしていた。現在は、所属先を探し練習を再開。日刊スポーツのインタビューで、今の心境を赤裸々に語った。

【写真】G大阪時代の橋本英郎(2007年5月19日撮影)

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年が明けた1月2日のことだった。橋本は自身のツイッターにこう記した。

「今年の抱負は? と言われると、

サッカーできるのか?

それとも引退なのか?

わからない中で、新年の抱負を考えること 状況的にはすごく難しいというのが正直な現状です」

J3今治の退団が発表になったのは昨年12月2日。それから1カ月。今後、どういう道を歩んでいくのか、悩んだことだろう。昨年末、サッカー界では大久保嘉人阿部勇樹玉田圭司ら日本代表として活躍した年下の選手たちがユニホームを脱いだ。一方でG大阪の黄金時代をともに支えた同学年の遠藤保仁は、J2の磐田を昇格させ、再びJ1の舞台に戻ってくる。橋本はどんな決断をするのか。関西にも粉雪が舞った日。素直な心境を聞いた。

「今、探しています。今年プレーできる場所を。やれるところまで、やろうという思いになって、その時点で辞める感覚はなくなった。女々しく粘っちゃっていますね。辞め時を見逃したっていう感じです」

自問自答しながら引き際を考えた時、今ではなかった。それは、どこかで燃え尽きたいという思いがあったからだろう。体力の限界まで、老いには逆らえないと感じるまで、もう走れなくなるまで…。やり続けたいのかも知れない。

昨季は開幕から全試合に出場しながら、9月12日藤枝戦で右鎖骨を骨折し手術。全治3カ月で、そのままシーズンを終えた。

「このまま引退したら、最後のプレーが、ケガをした試合になってしまうんです。ガンバの時と似てますよね。(2011年に)前十字靱帯(じんたい)を切って、復帰は少ししましたけど、そのシーズンで退団になってしまった。もともと僕の思いは、1つのクラブでずっと過ごして引退をしたかった。でも、そのタイミングが来ることなく、ガンバの時はそうなってしまった。引き際をミスっていますよね」

西野朗監督が率いたガンバ大阪の黄金時代の中心選手だった。リーグ初優勝した2005年は出場停止の1試合をのぞき全33試合に先発。2008年のクラブW杯では、マンチェスター・ユナイテッドとの激闘でゴールも決めた。遠藤、明神らとともに「黄金の中盤」を支えた人だ。ガンバ大阪で引退し、幹部候補生として監督になってもおかしくなかった。

理想と現実。そのはざまでもがき、完全燃焼しようとしている。

「(昨季も)ケガではなく、最後まで試合に出ていたら終われたかも知れない。ああ、もう無理だなと、そう感じるまで、ピッチの上で辞めたいというのが正直な気持ちですかね。ヤット(遠藤)にしろ、イナ(稲本潤一)にしろ、南雄太もまだJ2(大宮)でやっていますからね。同世代がやっているのは刺激になります。まだサッカーが好きだから。サッカーをするのが好き。だからやるんです」

今後は、柏などで活躍した増嶋竜也氏(36)が所属先を探している選手を集めて活動する「Reback(リバック)」が宮崎で行うキャンプに参加する。トレーニングを続けながら、オファーが届くのを待つ。

「プロとして雇ってもらえるのであれば、Jリーグにこだわらず、JFLでも社会人リーグでもいい。できるだけ昇格を目指しているチームに行きたいです。1年、1年。納得して辞める、その時が来るまで。いつ辞める判断をするかは自分でも分かりません」

まだ、現役にこだわる。再び輝ける場所を求めて。

◆橋本英郎(はしもと・ひでお)1979年(昭54)5月21日、大阪市生まれ。ガンバ大阪ジュニアユースからの生え抜きで、大阪の名門・天王寺高時代は稲本潤一、新井場徹らと同ユースに在籍し、98年のトップ昇格後も大阪市立大に通った。ガンバ大阪では05年リーグ初制覇、08年ACL優勝、09年度天皇杯2連覇などに貢献。12年に神戸に移籍し、当時J2のC大阪、J3長野、J2東京Vを経て19年から今治へ。07年に日本代表に初選出され、国際Aマッチ15試合無得点。173センチ、68キロ。

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