加地亮の日本代表ベストゲーム。「ヒデさんや俊輔さんとは喋った記憶がない。それでよくサッカーができたな」

日本代表「私のベストゲーム」(6)

加地亮編(前編)

これまでに数多くの選手たちが日本代表に選出され、W杯やW杯予選、アジアカップやコンフェデレーションズカップなど、さまざまな舞台で活躍してきた。そんな彼らにとって、自らの「ベストゲーム」とはどの試合だったのか。時を経て今、改めて聞いてみた――。

初めての試合。それはいつまでも心に残る、思い出深い記憶であるに違いない。ましてサッカー選手の憧れであり、名誉でもある代表チームでのこととなれば、なおさらのことだろう。

日本代表として通算64試合に出場した加地亮にとっても、デビュー戦はいまだ忘れることのできない特別な一戦だ。

「初招集で初スタメン。このチャンスをつかめなかったら終わりだろうなって自分では思っていました。そのなかでチームは結果を出すことができましたし、自分のパフォーマンスとしても特長を出せたので、この試合はよく覚えています」

2003年10月8日、日本代表が敵地チュニスに遠征して行なわれた、チュニジアとの親善試合である。

「パスポート持っているか?」

加地の日本代表ベストゲームにまつわるストーリーは、そのひと言から始まった。

「(当時所属していた)FC東京の強化部長から、急に聞かれたんです。でも、パスポートなんてしばらく使っていなかったので、『たぶんあると思うんですけど、有効期限がどうなっているか……』って言ったら、『代表に選ばれるかもしれないから』って。

そこからは、ちょっとビクビクしていましたね。逆に、パスポート(の有効期限)が切れていてほしいな、って(笑)」

そして、迎えたメンバー発表当日。チュニジアとルーマニアに遠征する23人(その後、2人が追加招集)が発表されると、そこには事前の情報どおり、日本代表初招集となる加地の名前があった。

「正直、もっと(他に)いるんじゃないの?って思いましたし、自分でいいのかなっていうのが率直な感想でした」

しかも、当時日本代表を率いていたジーコ監督は、その遠征で行なわれる2試合の先発メンバーまで同じ席上で発表。加地はチュニジア戦に先発出場することが明かされた。

「その頃、FC東京には徳永(悠平。当時、早稲田大在学中)が強化指定選手で入ってきて、僕も試合に出たり、出なかったりだったので、正直、僕のどこがよかったんかなっていうのはありました。

まあ、タイミングよく選んでもらえたみたいなんですけど、めちゃくちゃビビッていましたね。これはヤバいな、と(苦笑)。親善試合とはいえ、負けたらどうなるんだろうっていうプレッシャーはありましたし、ここで結果を出さなかったら、これからどうなるんだろうって、先のことばかり考えていました」

とはいえ、まったく自信がなかったわけでもない。

1980年1月13日生まれの加地は、いわゆる”黄金世代”のひとり。1999年ワールドユース選手権に出場したU-20日本代表にも名を連ね、準優勝という快挙を成し遂げている。

滝川第二高を卒業後に加入したセレッソ大阪では、なかなかポジションをつかめず、当時J2の大分トリニータへの期限付き移籍も経験したが、そこでの活躍が認められ、2002年にはFC東京へと移籍していた。

「サッカー選手としてプロになり、J2からJ1へステップアップし、ようやく力がついてきたのを感じていました。自分のなかでも『もしかしたら代表も狙えるのかも』という実感が湧いてきたころでした」

加えて、同世代の選手、すなわち、小野伸二、稲本潤一、高原直泰らから受ける刺激もあった。

「彼らは常に代表に入っていて、同じ世代であっても自分よりは確実に上のレベルにいるのはわかっていました。いい刺激をもらっていましたし、いつかは自分もJ1で活躍して一緒に代表で、っていうイメージは描きながらプレーしていましたね」

いわば、期待半分、不安半分の日本代表初合流。だが、加地は苦笑いを浮かべ、「ずっと緊張していた記憶があります」と、当時のことを振り返る。

「すべてが初めてで、しかも海外遠征ですからね。自分がここにいていいのかな、っていう感じでした。海外でプレーしている人もいましたし、テレビで見るようなスゴいサッカー選手ばかりだったんで、なんかこう……、引け目を感じるというか。そんな感じはありました」

同世代の選手が数多くいたことは加地にとって幸いだったが、「その上の世代のヒデ(中田英寿)さんや(中村)俊輔さんとは、あまり喋った記憶がないんですよね。コミュニケーションもとれなくて、よくサッカーできたもんやなって思います(苦笑)」。

なかでも、加地が「今でもよく覚えている」と語るのは、チュニジア戦の前日練習でのことだ。

「たぶん中盤の人たちには、僕のプレーを(事前には)あまりわかってもらっていなかったような気がします。だから、そこで自分のよさをアピールするっていうか、自分の特長をわかってもらうために必死でした。

特にボールがない時の動き出しは、意識しましたね。僕はこのタイミングで走るぞ、っていうことだけはわかってもらおうと練習していました」

だが、いざ記念すべき日本代表デビュー戦が始まってみると、加地は意外なほどの居心地のよさを感じていた。

「結果的に短期集中というか、ぶっつけ本番みたいなことがよかったのかもしれません(苦笑)」

その要因となっていたのは当時、往年のブラジル代表になぞらえて”黄金の4人”と評されていた、中田、中村、小野、稲本の存在だった。

「中盤は気が利く選手ばかりで、常に周りを見ながら、その選手のよさを生かしてくれるパサーが多かったんで助かりました。

この選手は絶対に前を向くっていうポイントでは前を向いて、2タッチ目にはスルーパスを出してくれるし、今はちょっと急がないでほしいなっていうときは、しっかりタメを作ってくれる。だから、周りが動き出せるんです。一人ひとりがやることが常に安定していて、タイミングがとりやすい。それはすごく感じましたね」

とりわけ同じ右サイドで連係することが多かった中田とは、初めて一緒にプレーするとは思えないほどスムーズなコンビネーションを見せ、周囲を驚かせた。

「ヒデさんは人を生かすタイプで、僕は生かされるタイプ。なので、ボールをもらう前から常にヒデさんを見て、いかに早く預けて、次にどう動くか。ヒデさんはだいたい縦パスを狙っているので、縦パスのあとの3人目、4人目の動き出しっていうところにフォーカスしながらずっとプレーしてました。それはたぶん、ヒデさんも思っていたことだと思います」

負けたらどうなるんだろう――。悲壮とも思える覚悟で臨んだデビュー戦も、終わってみれば、日本が1-0で勝利。加地個人も、ジーコ監督からは「新しい発見だ」と高い評価を受けた。

「ある程度主導権は握れていたと思うんですけど、なかなかゴールをこじ開けられず、すごく堅い試合ではあったと思います。でも、前半のうちにヤナギ(柳沢敦)さんが1点とってくれて、後ろはしっかりゼロ(無失点)でいくっていうことを心がけながら、うまく試合を運べたと思います」

唯一、もったいないプレーを挙げるとすれば、後半に訪れた決定機。加地はDFラインの背後へ抜け出し、GKと1対1になりながら、せっかくのチャンスを逃している。

日本代表初招集、初出場、初先発にして、いきなり初ゴールまで決めてしまう。そんな”大偉業”を寸前で逃してしまったわけだが、「でもね、僕のサッカー人生、たぶんそういうもんやと思うんです」と、加地は笑う。

「コンフェデ(2005年コンフェデレーションズカップ)のブラジル戦(試合開始早々にゴールを決めたが、際どいオフサイドの判定で取り消された)もそうですし、やっぱり、あれをとってしまうと僕じゃない(笑)。

僕のサッカー人生のなかでは、あれは決めなくていいっていうか、惜しいところで終わってしまうのが自分のサッカー人生なんで。あれはあれで僕らしいなって感じはします」

それでもこのチュニジア戦で、加地がどれほど鮮烈な印象をジーコ監督に植えつけたかは、この試合をきっかけに日本代表に定着し、3年後のワールドカップに出場していることからもよくわかる。

「(日本代表に選ばれたことで)うまい選手だったり、対戦相手の選手だったりっていうところからの気づきが、本当に自分を成長させてくれました。

日本のなかでもそうだけど、世界にはもっとうまい人がいるんだって気づけたことが自分の新しいチャレンジにもつながったし、努力をしないといけないという気持ちにもなりました。今までの頑張りでは世界には通用しないっていうところはよく感じさせられていましたからね。そういう環境に僕は成長させてもらったなって思います」

しかしながら、変わらなかったものもある。

その後も長く日本代表で活躍してきた加地は、デビュー戦から変わることのない思いを常に胸に留めてきた。

それは、ただただ必死にプレーしたチュニジア戦を終え、ロッカールームに戻った時、ふいに湧き上がってきた感情である。

「この初招集初出場の気持ちを絶対に忘れてはダメだな、と。こういうプレーをずっと続けていくんだって思ったし、それは、その後もずっと僕の気持ちのなかにありました。

僕は、サッカー選手にとって”慣れ”が一番怖いことだと思うんです。慣れてくると、いろんな経験が邪魔をしてくるんで。だから、常に新鮮な気持ちでアグレッシブに前へ出る。それは絶対に忘れてはいけないなって。あのとき、そう思ったことをよく覚えています」

加地 亮(かじ・あきら)
1980年1月13日生まれ。兵庫県出身。滝川第二高卒業後、セレッソ大阪入り。以降、大分トリニータ、FC東京、ガンバ大阪、チーヴァスUSA、ファジアーノ岡山でプレー。日本代表でも活躍し、2006年ドイツW杯に出場した。国際Aマッチ出場64試合、2得点。

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